天に代わりて不義を討つ

歴史修正主義に反対します。難しいことをやさしく、わかっていると思うことを深く追求して書きます。議論を通じ、対話を通じて真実を求めます。

吉元玉さんを広島に迎え、証言を聞く集会に参加しました。

 

 

 

 

 

聴こえますか?

ハルモニの叫びが!

日本軍「慰安婦」被害者証言集会in広島(2013.5.19)

 

 

 

に参加してきました。もともと、韓国の挺対協のひとたちと日本のひとたちの間でハルモニたちを及びして集会を開く予定があったそうです。それが最近の橋下市長の発言で思いがけず集会が盛り上がることになったそうです。

 

記念講演として梁澄子(ヤン・チンジャ)さんが「日本軍『慰安婦』問題の真実」と題して講演を行いました。もともとは安部首相の歴史認識に対する批判をレジュメに用意していたところ、橋下の暴言を批判するレジュメに変わったそうです。

 

橋下は「慰安婦制度」は必要だったというが、これは当時の軍の見方に自分を合わせていた。ところが急に慰安婦制度は容認していない、などと態度を変えた。

また、強制連行がなかったから、慰安婦は強制ではなかったという意見を最近では国を挙げて暴行・脅迫・拉致をしてそういう仕事につかせていたといわれているが、そういう事実はない、もしそういう事実があればそれは日本の特殊性であって世界かに言われるまでもなく、日本は反省しなければならない。などと主張をするすると変えてきている。

 

しかし、日本軍が中国やアジアで暴行・脅迫で現地住民を強制して慰安婦にした事実はある。それに関して10件の訴訟がなされたが、いずれも敗訴となった。その理由は外地において日本がそういうことをしてはいけないという法律を当時、日本が持っていなかったという理由だそうである。しかし、事実関係においては10件中8件で事実認定がされている。

 

女性を徴募するときはいろんな手口が使われたが、むき出しの暴力でなければなにをやってもいいのか。刑法では直接の暴行・脅迫によってひとさらいをすることを略取といい、だましたり、誘惑したりして判断を誤らせた上で自己の支配下に置くことを誘拐というが、両者の量刑は同じである。すなわち、同罪である。

 

日本軍慰安婦は8万とも10万とも言われる。その方たちは長く口を閉ざしていた。金学順さんが最初に声を挙げたあと、少しずつ名乗りを挙げるひとたちが続いた。慰安婦の中には慰安所の中で死んだひと、戦争の中で死んだひと、敗戦後も身寄りもおらず、頼るひともなく、窮乏の中早死にしたひとも多い。恥辱とPTSDのため、証言するひとは少なく、金学順さんが証言したあとも名乗りを上げるひとは少なかった。現在韓国で名乗りを上げたひとは235人いる。他にも中国、台湾、インドネシア、フィリピン、オランダ、メラネシアなどにいる。口を開くことなく、息絶えた方々の苦しみを、また、いまだ名乗りを上げることのない人たちの胸の苦しみを感じてほしい。

 

名乗りを上げたひとたちは証言をきっかけとして変わっていった。当初は日本政府への怒りと憎しみだけだったが、世界の戦争による性被害をなくすために証言をするようになり、それが自分自身の心の傷の救済にもつながるようになった。

 

証言者である吉元玉さんは84歳、平壌に近いところでそだった。13歳のとき父親が監獄に入れられ、10円の罰金を払えば釈放されると聞かされた。そのときあるひとがいい働き場所がある、そこなら10円をすぐ返されると言われ、したがったところ行った先は日本軍慰安所だった。慰安所では日本の将校に暴行を受けた。いっそのこと日本刀で切られて死ねばよいと思ったが将校は刀を鞘に収めたままで頭をぶん殴ったのでおびただしい血が流れた。

解放されたあとは仁川に行った。父母には二度と会えなかった。養子をもらって育てた。

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5月18日の福山市の集会の記事(朝日新聞)

慰安婦証言者が名乗り出たときにはなんでそんな恥ずかしいことを公にするのかと思っていた。証言しはじめたのかなり遅い方だった。いまは糖尿病・高血圧・ヘルニア、膵炎などに苦しむ。証言の合間には苦しそうに息をしている。しかし、ときおり、言いたいことが思い浮かぶとマイクを取って再び話はじめる。そのときの口調ははっきりし、顔つきも元気になる。証言を始めて以来、自分だけのこととは思わなくなった。現在はナヌムの家で暮らし生活の心配はない。ただこれからのひとたちに性被害が出ないことを目指し、戦争のない世の中になるよう証言活動を続けている。オーストラリアやEUの議会でも証言をしたことがある。昨日は福山市で証言活動を行い、明日は女子大で、あさっては広島市立大と集会に参加し、24日には橋下市長に面会する。

彼女たちが生きている間に日本政府の謝罪と補償が行なわれてほしいものだ。

ナイーブさんとの対話(1)

mixiで右翼のネット言論に洗脳されかかったナイーブな方にお会いしました。その方
との討論です。結構、論点が網羅されています。

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>日本軍の強制が国会の調査で見当たらなかったにも関わらず存在する日本軍の無罪ではない?つまり有罪とはなんですか?

 

日本の国会が調査した事実はありません。1992年政府が調査しました。この調査報告は政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料で見ることができます。この調査において慰安婦の募集、送致、慰安所の設営・管理に政府・軍が関与した事実が認められています。

 日本軍慰安婦の問題は強制連行したかどうかの問題ではありません。性労働を強制したことです。片端から強制連行するというのはまずありえません。女性本人や家族、地域のものが大騒ぎするからです。

 

まあ、戦地に行って兵士の性の相手をするというのはたとえ、どれだけ金を積まれても怖がられ、嫌がられますよ。事実、日本軍慰安婦は最初は公娼から呼び集めたのですが、めったに応募者はいなかったのです。しかし、軍はどうしても人数を集めたかったので、次には業者がだましたり、前借金という高利貸しによって縛りつけ、暴力的な強制ではないにしろ、実質的には強要して連れていったのです。

 

また、だましかたもめちゃくちゃで中には従軍看護婦や事務員に使うと行って連れて行き、現地で慰安婦にされた方もいます。これは慰安婦の証言ではなく、利用者だった日本軍将兵の日記、回想などの記録があります。

 

 

国内での公娼はまだしも気に入らない客(乱暴をするなどの)の拒否ができたり、人数も過剰にならないようにしてあり、外出も自由でした。ところが慰安婦においてそそのような自由がなく、1日に20人、30人と客をとらされて毎日陰部が痛くてうちわで扇いでいたという話があります。

 このような猛烈な人権侵害だからこそ、慰安婦・慰安所を作り出した当時の日本と日本軍は糾弾されなければならないのです。

 

 

>東京裁判にてさえ罪に問われていない従軍慰安婦の罪ってなんですか?

 東京裁判のときは知られていない戦争犯罪、裁かれていない戦争犯罪はたくさんあります。慰安婦の問題も裁かれるへきだったでしょうが、この問題が意識されるようになったのは1990年代以降です。国連ではこの問題が重視されており、日本は国際的に批判されています。

 

>あと、仮に日本軍の罪があったとしてもライタイハンの問題を起こした韓国なんかに従軍慰安婦を批判されるいわれはない、というのが一般的な感覚だと思います。

 

ライタイハンの問題は韓国人自身・韓国メディアの告発から問題となりました。ベトナム人が意識したのはその後です。自国の兵士の横暴を告発した韓国人はえらいと思います。 

ところで、ライタイハンは主に韓国軍兵士が長期滞在するうちにベトナム人女性と深い仲になり、事実婚をしながら、帰国の際には一方的に放り出された女性たちの子どもの問題です。韓国軍がベトナム人女性を慰安婦にして、その子どもが生まれたのではありません。いわゆる現地妻を作っておきながら責任をとらないのはけしからん、とそういうモラルの問題です。

日本軍慰安婦は戦争に伴う国家犯罪であって、犯罪の程度のレベルが違います。ですから、国連の方でも扱いははっきり違っています。

 

韓国がベトナムでなにか不祥事を起こしていたとしても、日本が韓国人に対して人権侵害をしていたことについては文句を言う筋合いはあります。例えていえば学校で、A君がB君をいじめていた、しかし、B君も実はC君をいじめていた。では、C君をいじめているB君はA君に文句を言ってはならないのでしょうか。言ってもいいのです。ただし、B君がA君に文句を言うときには僕も同じことをしていたことに気がついて反省して、お互いがいじめをなくす努力をしなくてはなりません。B君は文句を言う権利はない、と言い切ってしまうと、いじめを根絶する道はひらけません。

 

「GHQが慰安所の設置を要請した」という早とちりの理由

 ドウス昌代『敗者の贈物』を通読すれば、日本人がアメリカ軍がなにも言わないうちから、RAAを設置しようとした理由や、アメリカ軍将兵に進んで「性上納」をしたり、住宅とリクリエーション施設を要求されて、あわてて慰安婦施設のことかと思い込んだ理由がすけて見えてきます。 

 

『敗者の贈物』pp15-16 

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病院を出たあと、大佐は急に疲れを感じた。がも横浜市が占領軍将校宿舎として指定した建物も至急見ておかねばならなかった。 

それは「ヘルム・ハウス」といった。マッカーサーを初めとし、サムスたち占領軍高官の宿舎となったニューグランド・ホテルの近くにあった。一町ほども続く二階建ての木造アパートである。 

屋内は、やはり汚く薄暗い。と、その目に赤い着物色が動いた。若い日本の女が数名、じっと息を凝らしてこちらを窺っている。予想していなかっただけに、サムスは一瞬気を呑まれた。白粉をしているのが、異様に感じられる。アパートの各部屋に、かなりの人数の女が待機しているらしかった。 

 (略) 

同日、マッカーサー元帥より一足さきに厚木入りした新聞特派員やカメラマンが多数、ヘルム・ハウスの入り口に陣取り始めたのだった。最初に日本の「ゲイシャ・ハウス」へ足を入れる米兵の写真を、本国へ送る占領第一日目の大見出しに使おうという魂胆だ。 

そんなことになったら、本国でスキャンダルになることは確実だった。マッカーサーの日本占領に傷がつきかねない。 

 米兵の健康、すなわち性病面からも、サムスはこれを無視出来ない立場にあった。 

一緒に横浜上陸したクレスト少将やウィロビー少将等と相談の末、ヘルム・ハウスへの米将兵の出入りを、早速禁じた。 

その後七年間続く占領期間中、「ヘルム・ハウス」の名は、ワシントンと占領軍司令部の間で売春問題の悪名高きシンボルとして度々使われることになる。 

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 抵抗と不服従にあうと信じて警戒していた上陸したばかりの米軍将校にとって、案内された宿舎に女性をはべらせておくという対応をした日本人に驚倒したことでしょう。ワシントンの意向にことさら気を使わなくてはならない、占領軍高官一行にとって、この待遇は歓迎すべきどころか、とんでもない落とし穴として強く印象づけられました。彼らの一員であるサムス大佐が生きていて今の「米軍が慰安婦・慰安所を要求した」などというデマを聞いたら腹を抱えて笑うかあるいは、激怒したことでしょう

 

同書pp76

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 ノルマンディ侵攻直後、その近くの海岸の町にフランス政府は数件の米軍専用売春ハウスを設けた、連日すごい行列が続いた。しかし、米軍司令部はワシントンの反応を恐れて、三日で閉鎖させている。そのためフランス政府は他の町に準備中だった米軍専用施設をすべて取り消していた

 サムス大佐によると、エジプト政府が同じような施設を準備したときは、そんなに注目をあびる駐屯地でなかったので、ベイ司令部は見ない振りをし、将兵に利用させたという。

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 アメリカ軍が兵士の売春施設利用を禁じていたのは一貫した方針だったことがわかります。

 これらは政府中枢の方針であり、そのうらにはアメリカの女性の意志がありました。ただし、駐屯軍司令官にとって兵士の性的はけ口は悩ましい問題であり、ときとして目をつぶることがあったことをサムス大佐は明らかにしています。

 

 だとしても、売春施設を提供したのは同じ連合軍に属する国家であり、それはアメリカ軍によるナチスからの解放の謝意でした。すなわち、駐留アメリカ軍は要求したことも、命令して作らせたこともないのは明らかです。ではこれらは、日本のRAAと同じ性質のものだったでしょうか。完全に違います。施設を作ったのはかたや同盟国、ところが日本のRAAは非占領国です。非占領国が占領軍に対して性的サービスを伴う施設をすすんで提供したのです。米兵による陵辱から女性・子どもを守るという信念でやったということですが、非占領国が占領国に性的サービスを提供するとはまた、屈辱的にもほどがあります。

  

 ネトウヨは磯村英一氏の証言(産経新聞)、広岡敬一著『戦後性風俗大系』、川島高峰氏の論文?というような資料ともいえないような片言隻句を並べて、アメリカ軍が日本にRAAを作らせた、などという珍説を言い立てるのですが、当時の資料を普通に並べて読めばアメリカ軍が売春施設を作るように言うことなどありえないのです。

 

 日本軍慰安婦を作ってそれを当然と考えていたような当時の日本人だから、アメリカ軍が占領軍が来れば日本女性を強姦しまくるに違いないと恐れて8月18日という早い段階でRAA設置を決めていたし、米軍が住宅とレクリエーションを要求すれば、「ああっ、慰安婦要求が来たー!」とあわてふためいたに決まっているのです。

もうひとつのGHQ指令説ソース

こういうのもありますね。 

 

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当時、日本人女性たちは、日本に進駐したアメリカ兵たちによって強姦されていた。 

そのため、米軍は半ば強制的に、日本に対して慰安所を設置するように命令した。 

RAAは1945年8月18日内務省警保局長通牒「外国駐屯地における慰安施設について」に基づいて作られた、日本政府による占領軍性犯罪防止のための慰安所だった。 

しかし、占領軍による性犯罪は、その程度のもので緩和されなかった。 

例えば、1945年8月30日一日の、神奈川県下のみで発生したアメリカ兵による強姦事件315件だった! 

9月28日にGHQ軍医総監は、東京都衛生局に対して慰安施設の増設を指示した! 

広岡敬一著『戦後性風俗大系』参照) 

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広岡敬一というのは1921年生まれのかつての風俗ルポライター。けっしてアメリカ軍当局と折衝した当時者などではありません。 

 

問題は 

>9月28日にGHQ軍医総監は、東京都衛生局に対して慰安施設の増設を指示した! 

 

という一文ですが、おかしなことが二点あります。占領行政組織として軍医総監は「慰安施設の増設」を日本に対して命令する権限はありません。第二に東京都衛生局も「慰安施設の増設」を指令する役所ではありません。 

 

 

RAA設立の経緯やアメリカ軍の占領政策に詳しい、ドウス昌代の『敗者の贈物』に当たってみましょう。米兵の性病の管理をしていたのは公衆衛生局でトップはサムス局長です。 

 

『敗者の贈物』pp115 

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九月二十二日、サムス大佐は「公衆衛生対策に対する覚書}を出すと、直ちに着手すべき事項を指令した。外地からの引き上げが続き、第一に伝染病が恐れられていた。そのため防疫対策に関することを主とした。 

 続いて出されたのが 

九月二十一日の「日本国民は花柳病撲滅に特に努力すべし」という覚書である。 

 

 略 

 

性病予防対策会議は売春対策も兼ねてまず九月十一日、サムス局長を中心に各軍の軍医、憲兵隊代表を集めて開かれた。その直後、各軍衛生隊により日本の売春婦の性病率の調査が行なわれる。梅毒に罹っている者が全体の五十パーセント、淋病七十五パーセントという恐ろしい数字が出た。慌てて指令されたのが前記の覚書である。 

 本格的な性病対策が開始されるのは、覚書が出た二十二日に、性病担当官ゴードン軍医中佐がマニラから到着してからとなる。 

 

 略 

 

九月二十九日の午前中、ゴードン中佐はサムス局長、米太平洋陸軍軍医総監デニット准将の代理のブルース・ウェブスター軍医大佐、第八軍衛生部及憲兵隊代表等と会議を開く。性病予防はまず売春を防止する以外ない、というみなの一致した意見だった。だが、「日本の売春防止対策は無きに等しい」(PH&Wメモ」一九四五年九月二十九日付)と、一同は揃って悲観的であった。 

 そのための施設がある限り戦線から入った将兵の立入りを禁止ずるのは、効果的なやり方でなかった。オフ・リミット例は、あってなきがものといえたのだ。 

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つまり、広岡氏が指摘する9月28日ごろ、GHQの中で問題になっていたのは売春による性病多発の対策でした。その対策として売春禁止を検討していた、GHQがRAAの増設などを指令することはありえません。

「GHQが慰安所の設置を要請した」という脳内風景

ネットには「戦後、日本に進駐したGHQは日本側に慰安所の設置を要請した」という記事が大手をふってまかり通っている。そのソースはこれらしい。 

 

1994/09/17  産経新聞 

【正論】地域改善啓発センター理事長・磯村英一 

 

命令された娯楽施設の怪 

最近の北京訪問で気になったのは、一九九五年国連が北京で開く女性の人権に関する会議のこと。私は一年前の一九九三年九月、国連がウィーンで開いた世界人権会議に、同和問題の関係から参加した。そのとき直面した課題は、第二次世界大戦中、日本がアジアの戦場で、女性の人権を侵したという課題、いわゆる“慰安婦”の問題である。NGO(国連が認めた民間団体)の側からも、きびしい追及があった。 

 

日本側は、その問題に関しての十分な準備がないので次の国連の集会に報告するとして、ウィーンでは問題にならなかったが、次の国連の集会は、問題もそのものズバリの“女性の人権”である。日本政府は少なくとも来年の会議までに何らかの対応を国民にも知らさなければならない。最近一応の案を出しているが、それで済むのか。 

 

直接その問題にはかかわりがない私が、発言をするのは、この慰安婦の問題は、決して日本の軍隊だけでなかったという事実を、私自身が経験しているからである。 

日本の終戦直後、私は東京都の渉外部長で、占領軍司令部の命令に、"サービス"を提供する役割を課された。 

戦勝者の命令は絶対である。 

僅か一、二週間の間に占領軍の兵隊のためにワシントン・ハイツ等という名の宿舎の建設が命令され、将校たちのためには、洋式のトイレの住宅を接収し、提供した。 

敗戦の年のクリスマス、司令部の将校から呼ばれて"ヨシワラ"の状態の報告を命ぜられた。 

もちろん、その地区は焦土と化していた。命令は宿舎を造って、占領軍の兵隊のために、"女性"を集めろということだった。 

命令は英語で"レクリエーション・センター"の設置である。最初は室内運動場の整備だと思ったが、そうではない。旧"ヨシワラ"のそれであった。 

 

敗戦直後の東京の行政は、女・子供はできるだけ地方に分散するようにという命令が出され、占領軍の兵隊のための宿舎をつくる労力さえも不足の状態だった。しかも外国の兵隊は、鬼畜とさえ教えたのを、改めてそのようなサービスを提供するなどできるものではなかった。 

(後略) 

 

 

米軍が来てただちに宿舎を作れと言われたというのは不思議はない。しかし、45年12月になって焦土と化していたヨシハラに宿舎を作れという命令を受けたというのは不審である。その宿舎というのは米兵のためのものなのか。そうであれば、もっと早いうちに命令が出ていたはずだ。 

 

米軍兵士のために"女性”を集めろ、レクリエーションセンターを作れという「命令」があったという。これはちょっとおかしいのではないか。磯村氏の話では1945年のクリスマス前の命令であったとするが、日本の内務省はすでに敗戦直後の8月18日にただちに『特殊慰安施設協会』(RAA)の設置を決定し、米軍到着前にはすではに第一次の募集を終えているのである。年も押し迫って米軍が慰安施設の増設を命令したというのはおかしい。 

 

そもそもRAAという慰安施設をアメリカの要請も命令もなしに率先して作ったのは日本側なのである。しかも、アメリカは翌年の1月にはそのRAAの閉鎖を命じている。その米軍が年末に慰安施設の増設を命令することはありえない。 

 

 

この磯村英一というひとは1903年生まれ、新聞記事のときは91歳で、46年前のことを証言している。wikiによると943年7月1日の東京都制施行と同時に渋谷区長に就任し、1945年12月まで務めたことになっている。渋谷区長の任にあるものが東京都の渉外部長をしていたとは首を傾げる。 

 

そもそも、磯村氏は「レクリエーション・センター」について米軍の命令を受けた当人なのか。 

 

>命令は英語で"レクリエーション・センター"の設置である。最初は室内運動場の整備だと思ったが、そうではない。旧"ヨシワラ"のそれであった。 

 

室内運動場の整備と思ったが、売春施設の整備だったとあとでわかった、というが磯村氏が直接アメリカ軍からどういう施設であるかという説明を聞いて「わかった」のだろうか。とすればそのときの驚き・戸惑いの記憶が描かれていない。当時の日本人の女性の人権に対する意識はRAAを自らが考案するほどの状態であった。また、当の磯村氏自身、鬼畜米英と恐れ女性・こどもを都内から逃げるよう指導していた。アメリカ軍がサービスを要求したときに「アメリカ軍人が要求している、あれのことだな!」と即断した関係者がいて、磯村氏はその関係者からの伝聞で「わかった」と考えれば納得が行く。 

 

ネトウヨがこぞって引用するこの新聞記事は91歳の老人の「証言」である。ネトウヨ君が愛用する言葉で言えば、証言は証拠ではない、という話である。日本側が設置したRAAについては多数の一次資料がある。もしこの話が事実であれば、東京都や米軍文書には一次資料が残っているはずだ。しかし、そのような資料はない。 

 

「アメリカ軍が慰安施設を作るよう命令した」とは信じたいことを信じ、信じたくないことを否定するネトウヨの脳内風景に過ぎない。 

 

各国に慰安婦制度があった?(2)

「各国の慰安婦」でネットを検索すると、「酒たまねぎや店主の木下隆義」なるもののサイトが真っ先に目に入ります。 

 

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 <従軍慰安婦という制度は、日本だけにあったものと言われる。少なくとも近代軍の中で、戦争の際に、女性たちを同行させ、自分たちの性の処理をさせた軍隊というものは、かってなかった> 

従軍慰安婦と戦後補償」p69 

あの売国奴弁護士高木健一の言葉です。 

そして、あの辛淑玉女史も 

 <近代国家の軍隊が、組織的に大量の女性を性奴隷にして戦場を連れ歩き、強姦し続けたなどという例が日本以外のどこの国にあるのか、ご存知ならば教えてください> 

在日コリアンの胸のうち』より 

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という指摘に対する反論として書かれています。 

以下は酒たまねぎや店主さんの本文。 

 

 

現在、私の手許にある本からだけでも以下のような例を引く事ができます。 

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 第一次世界大戦時の軍隊と性 

 西部の戦争舞台では、アミアン、アベヴィーユ、アーヴル、ルーアンその他、前線の背後のすべてのフランス都市には連合国軍部隊のための特に設備がよくて繁昌した兵站娼家があった。将校用娼家の目印は青い軒燈で、兵隊用娼家のそれは赤い軒燈であった。娼婦はたいていフランス女で、前からその町に住んでいるものか、ドイツ軍に占領された地方から逃げてきたものであった。・・・・・このフランスの兵站娼家は、予防法のことをほとんど知らぬイギリスの兵隊たちにとっては特に、まさに性病の孵化場であった。 

 ドイツの側にも、兵站地域の大きな町には必ず兵隊用娼家と将校用娼家とがあった。 

略) 

 兵隊用娼家はどこでも、門前に長蛇の列をつくっている兵隊たちによって、あまり見栄えのしない光景を呈していた。 

 (ヒルシュフェルト「戦争と性」世界性学全集第五巻、河出書房刊 p125~6) 

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これは単なる駐屯地周辺の売春宿のようで、軍の慰安婦施設であるという証拠はまったくありません。 

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 我が国においてのアメリカ軍に対しての慰安婦政策

 昭和二十年八月十八日、内務省は全国の警察管区に秘密無電を送り、占領軍専用の「慰安婦施設」を特設するよう指示した。

 (ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」岩波書店p150 引用元 神崎清「売春・決定版神崎レポート」現代史出版p127~162)

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 米軍の本隊がまもなく到着する。宿舎は内村旅館である。どのくらいの期間滞在するかわからないが、署長は米軍から知覧の町民を守るようにとの中央の命令を受けている。一番怖いのは婦女暴行であるが、これについては各方面の協力を得て、彼らに当てがう女たちを確保した。

 その女たちは、いわゆる慰安婦である。

 (赤羽礼子 石井宏著「ホタル帰る」草思社p188)

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有名なRAAのことですね。これはアメリカ軍が自軍に作ったのではありません。占領された側が占領軍のために国家的に慰安施設を作ったなどはおそらく世界に例がないのではないでしょうか。日本軍慰安婦とともに日本の恥です。これがアメリカ軍の慰安婦だなど言うのもどうかしているし、国家的に性上納をした歴史を恥ずかしげもなく提示するとは頭がおかしいとしかいいようがありません。

 

 

 アメリカの朝鮮戦争時における慰安婦施設について

 朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人女性の売春婦(慰安婦)を集めた米軍管理の「センター」を設置した。朝鮮の戦場から一定期間毎に交代で米軍の兵隊が送られてきた。

 (中川八洋「歴史を偽造する朝鮮」徳間書店p225)

 

 この施設については他の資料がまったくありません。著者はゴリゴリの右翼です。もし、アメリカ軍が率先して慰安婦施設を作ったという証拠・資料があるのであれば、アメリカ国内から猛烈な抗議が起こったことでしょう。というのも日本側が作ったRAAでさえ、アメリカ国内からの抗議によって米軍が閉鎖命令を出したという経緯があるからです。

 

 アメリカのベトナム戦争時のベトナム女性慰安婦について

 一九六六年頃までに、各師団のキャンプと周辺には「公認の軍用売春宿」が設置された。

 ライケでは鉄条網で囲まれたキャンプの内側に二棟の「リクリエーション・センター」があった。バーとバンド演奏所の他に六十室の個室があり、そこで六十人のベトナム女性が住み込みで働いていた。

 彼女たちは米兵の好みに合わせて、「プレイボーイ」のヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。性サービスは「手早く、要領よく本番だけ」がモットーで、一日八人から十人をこなす。

 (秦郁彦慰安婦と戦場の性」p171)

  

売春宿の設置主体については記載がありません。「公認」という言葉が示す実態も記載がありません。実はこのあとには次のような一文が続きます。原文はスーザン・ブラウンミラー記者でした。

 

  料金は500ピアストル(約2ドル)。女の手取りは200ピアストル、残りは経営者が取った。彼女たちを集めたのは地方のボスで、金の一部は市長にまで流れた。 米軍はこの方法で、「ディズニーランド」とも呼ばれた慰安所に手を汚していない形にしていたが、監督は旅団長で、ウエストモーランド司令官もペンタゴンも黙認していた。 女たちは、週ごとに軍医の検査を受け、安全を示す標識をぶらさげていたが、それでも米兵の性病感染率は(1969年には)20%に達していた。

 

つまり、設置主体は「リクリエーション・センター」の経営者で女性を集めたのは地方のボス。アメリカ軍は関与はせず、兵士が利用するのは黙認した。駐屯地における売春宿と軍隊が作った慰安所はまったく別のものです。
「酒たまねぎや」のコピペは各所で引用されています。日本軍慰安所とはまったく性格を異にするものを同じだ、同じだと騒いでいるだけです。

 

橋下が各国も慰安婦を持っていたというのもこの程度のデマに過ぎないでしょう。橋下は各国がどういう慰安婦を持っていたか、きちんと語らなければなりません。それこそ欧米各国に対する捏造による侮辱ですから。

各国に慰安婦制度があった?(1)

サンケイ新聞の極右記者、阿比留瑠比というものが、このような記事を書いている。 

それを読むとまったく空疎で根も葉もないデマだということがわかる。 

反論を投稿しようかと思ったが、loginが面倒なのでこの日記に書く。 

世界各国にもあった慰安婦・慰安所

> (1)ソ連 

> 世界難民問題研究会協会のドイツ課長であるライヒリンク博士によれば、ソ連赤軍がベルリンまで侵攻してくる間に、190万人の女性が強姦されたという。そのうち140万人は旧ドイツ東部領など、50万人は後のソ連占領地域において強姦されたとされる。ライヒリンク博士は、強姦の結果として生まれた子供の数をつかむことは不可能だとしつつ、その数を29万2000人と推定している。数値の相当性の問題はおくとしても、こうした戦場の現実が「慰安所」の存在を要求するのである。 

  

ソ連軍指揮官は首都ベルリンを落としたらドイツ女性はやりたい放題だ、などと言って戦意を高揚させた結果、強姦が頻発したあとは急に態度を変えて強姦した兵をみせしめの銃殺に処したようです。 

日本軍は首都南京陥落後に多数の強姦事件を起こしましたが、強姦の罪だけで捕らえられたり刑を執行された例はありません。 

  

> (2)アメリカ 
> アメリカ軍が日本に進駐したとき、最初の1か月、それも神奈川県下だけで2900件の強姦事件が発生した。7年の占領期間中には2536件の殺人と3万件の強姦事件を起こした。事態を憂慮したGHQは、ついに東京都に慰安所の設置を要求した。これはうわさや誇張ではなくれっきとした事実である。

  

 アメリカ軍は現地の売春施設などを利用したことはありますが、自らが設置主体となったことはありません。この点は日本軍とはっきり違います。アメリカ軍の関与の目的は性病予防のためのものです。

 

>GHQは、ついに東京都に慰安所の設置を要求した。

 

このような事実はありません。

日本は敗戦のわずか3日後にRAAの設立を決定しました。アメリカ軍はまだ進駐もしていないのに、どうして慰安所の設置を要求できますか。アメリカ軍は国内からの突き上げと性病の蔓延に配慮して1946年1月にはRAAに行くことを禁止しました。本ブログの次のコンテンツでもそれを説明しています。

 

 

> (3)フランス

> フランス軍は45年4月21日にシュツッツガルトを占領した。福祉・保険関係の責任者になったガウブ教授はこう報告している。「女性住民はこの災難に十分な準備がなく、多くの場所で強姦事件が何百件となく起こった。60歳以上の女性も16歳以下の少女もこれを逃れることはできなかった」。

 

フランス軍兵士が強姦したとのことですが、軍が強制した慰安婦、軍が管理した慰安婦施設の問題とはなんら関係ありませんね。ソ連の項もそうでしたが。ちなみに強姦を多数引き起こしたのはフランス植民地軍、たとえばセネガル兵などのようですね。多数の強姦事件を起こすのは、ナチス・ドイツ、ソ連などのような全体主義国家あるいはアフリカ、ソ連のような民主主義の発展が遅れた国家であるという事実がありますね。

 

>(4)ドイツ

>ソ連に侵攻したドイツ軍は、ソ連ではスターリンが売春を禁じていたので、慰安所を新設せざるを得ず、慰安婦はしばしば強制徴用された。ドイツ本国への強制労働を拒否した若い女性は、代わりに慰安所で働かされた。ユダヤ人も同様であった。

 >ノルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、フランスではドイツ兵の子供が約20万人生まれたといわれる。

  

ナチス・ドイツは国防軍が軍中央の命令で500ヶ所に及ぶ軍専用売春宿(慰安所)を設立したと言われます。東部戦線では占領地域の女性に強制労働か慰安婦施設行きかを迫ったのは事実です。ファシズム国家のやることは西も東も似ています。

ドイツ兵の子どもが20万人とのことですが、慰安婦に妊娠は不要なので、避妊・中絶がされるのが普通で慰安婦の問題とは別のことです。

  

> (5)韓国
> ベトナム戦争に参加した韓国軍は、現地の慰安婦を米軍同様に利用し、ベトナム人との混血児がたくさん生まれている。そして韓国では、第2次大戦後も長期にわたり、米軍専用の売春施設が存在し、これを国家が管理していた。 

 

韓国が朝鮮戦争時に慰安婦施設を作ったのは事実です。これは日本軍に倣ったものです。ただし、米軍は慰安施設を拒否し、使用を禁じました。ベトナム戦争参戦時にも慰安婦施設を作ろうとしたようですが、これは米国の反対によって実現していません。ベトナムにおいて風俗施設に働く女性との間に、ライダイハンと呼ばれるこどもが多数生まれたことが問題になりましたが、これは韓国軍兵士の現地妻の子が大多数で慰安婦・強姦は少数でしょう。