天に代わりて不義を討つ

歴史修正主義に反対します。難しいことをやさしく、わかっていると思うことを深く追求して書きます。議論を通じ、対話を通じて真実を求めます。

安倍と橋下、互いに、あいつとは違うと言いあっている二人だがいったいどこがどう違うのだろうか。

1.安倍の見解

安倍は河野談話の見直しを再三述べたときに強制連行はなかったから、官憲や軍の責任はないと言った。あれは売春婦であり連れていった業者の責任だ、だから日本政府には責任はない、こういう見解だ(ただし、この後半部分を言っているかは確認していない、ただ安倍のお仲間たちが言っているので同じ意見であることは間違いがない)。

 

各国の非難、特にアメリカからの非難を気にして、日本軍慰安婦がかわいそうだった、同情している、今後はこのようなことがおこらない世界にしなくてはならないとは言っている(これはブッシュ大統領に迫られて口にした。この項は

紙智子議員が安倍首相の「強制連行の資料なかった」発言を追求している。にも書いている)。 

 しかし、慰安婦の境遇を考えたら可愛そうだとはだれでも言えること。日本政府の責任と謝罪を認めるかどうか、慰安婦問題はこの一点にかかっている。もちろん、これは口が裂けても言わない。 

 

 ところで安倍は慰安婦が可愛そうだ、同情しているという言葉はアメリカにつつかれて言ったということを隠しておきたい。もともとそういう考えを持っていたと偽装したい。特にアメリカに対してそれを示しておくことによってアメリカから余計なことを言われないようにしたい。そういう願望を端なくも示したのが、今年の一連の国会答弁だった( この件に関しては辻元清美議員がGJ!を果たしている。彼女のBLOGを見てほしい)。(追加 橋下市長の発言に関連し、質問主意書を提出しました にはもっと期待しています)

 

 安倍の戦略はちょっと前までは「強制連行なかった」論で防戦し、河野談話破棄を狙っていたのだが、アメリカなどの冷たい視線を感じて余計なことを言わない戦略に徹することにした。将棋で言えばアナグマ戦法と同じである。これは靖国問題などと同じく、歴史認識を政治問題化することはやめる、というのと同じ戦略である。 

 

 橋下が「当時は必要だった」などと発言したことについては、「安倍内閣、自民党の立場と全く違う」と言うが、「他党の代表の発言にコメントする立場にはない」と言うのだが、これは必要だったと思っていてもそれは言いたくないという苦しい事情なのだ。

 

今回の橋下の発言騒動がもたらした唯一の収穫は安倍が橋下と同じではないか、というアメリカのしつこい、しかも正当な疑念を感じて、安倍が歴史修正主義発言をより慎まなくてはならなくなったことである。

 

2.橋下の見解

 橋下も強制連行はなかったから、慰安婦は日本政府の責任はなかったということを主張していた。しかし、橋下は「慰安婦は必要だった」とまで踏み込んだ。これはさすがに、右翼政治家たちもそこまでは言わない。心の中ではそう思っていても、それを言うと女性たちの反発を食らう。したがって当時は公娼が一般的だった、当時の価値観は今とは違っていた、という線で収めていた。橋下は右翼が心の中では思っていてもあまり口にはしない女性観、戦争観を平気で口にするところがユニークだとは言える。 

 日本軍慰安婦がかわいそうだった、同情している、だけならだれでも言える。反発の火の手が強いとわかって橋下もあわてて言い換えた。問題は女性たちを慰安婦にした責任は誰にあるかだが、橋下もそれには触れずじまいだ。「強制連行の有無」論とは官憲がやってなかったら政府の責任はない、ということになるのだが、「もし、暴行・拉致・脅迫をやったのであれば日本は反省しないといけない」ということを防衛線に変えた。これも官憲が指揮していないなら日本は無罪だ、と逃げ口上が通ると思っているのだろう。

 

 橋下は海外から非難されていることに不満をもらす。そのため、議論をしてわかってもらえ、というのが橋下の基本姿勢である。強制連行の有無だけではなく、暴行・拉致・脅迫の有無が問題と言い方を変えた真意は不明だ。強制連行だと広義か狭義で水掛け論になると踏んで、話を一般的にしたのか、あるいは強制の内容をより具体的に展開するつもりかもしれない。 

  いずれにしろ、もしそういうことがあったら謝罪しないといけないと踏み込んでいるのは、旧来の歴史修正主義者とは一味も二味も違う。 

  歴史修正主義者にとっては日本は誤ったことをしていないは信念であり、彼らのアイデンティティそのものである。事実を見せても事実とは決して言わないのが特徴である。橋下の信念の中枢には伝統的右翼保守主義のように日本はいい国だ、美しい国だ、悪いことはしていない、という信念はない。日本は悪いことをしました、あるいはしたかもしれないくらいの言い方をするのに抵抗はない。ものごとをはっきりさせたい性格だから、悪かったら謝りますよ、謝ったらもうそこからは悪く言ってくれるな、というのが彼の真意だ。

 ひとつには彼の思想形成期は今よりもリベラルな思潮が多かった。リベラルな意見の流れに身を置いたことはあったのだろう。それよりさらに重要なのは部落出身者としての心のありようである。部落出身者もいろいろな社会への対応をとることがあるが、彼の場合は普通の社会から孤立することを死ぬほど恐れているのである。そのために彼のいわゆる「ふわっとした民意」から離れまいとする、そういう行動様式が身について離れない。その行動様式が国際社会を念頭においたときでも現れる。 

 そのためには国際社会と議論をして日本は悪くないということを理解してもらうことが彼の主張の骨格である。彼が「安部とは違う、安部は国際社会に訴えていない、私は訴え、議論する」というのがそれである。しかし、彼は歴史事実に対してまるで無知である。アメリカは人権や女性の権利については日本より確実に進んでいる一面がある。アメリカの方からは訪米しても面会するものはいないだろうと言われている。橋下はアラブの辺りでは自分の主張が正しく報道されているなどと言っているからこの夏はアラブを訪問するのがいいだろう。