天に代わりて不義を討つ

歴史修正主義に反対します。難しいことをやさしく、わかっていると思うことを深く追求して書きます。議論を通じ、対話を通じて真実を求めます。

慰安婦問題のブログを書くに当たって

タラリさんも資料を集めて書くともっといいんだが。と親切で言ってくれる人がいる。気持ちはわかるけど、そういうプログを作ることは考えていない。慰安婦のブログを作りはじめて気がついたが、たくさん本を読んで、たくさん資料を知って、たくさん資料を見つけてブログを書いているひとは多い。 

 

だがね、私はたくさん勉強をして資料をそろえてさあ、完璧なものを書くぞとか、そういう学術論文のようなものを書こうとかいう考えはもっていない。私よりよくものを知っているひとがたくさんいるのになぜ、その世界で同じことをしなくちゃならないのか。そもそも、私が慰安婦問題を書くのは何のためなんだ。

 

慰安婦のひとたちの悲惨だった境遇を聞き、同情する。なぜ政府はいまだに謝罪も補償もしてやらないのだろう。少しでも彼女らのためになることをしたい。なのに、ネットの言論界ではなんと、彼女らを中傷・誹謗し、彼女らを支えようとする善意のひとたちをあしざまに言うひとたちの言葉が溢れている。そして残念なことには、彼らが発する無知で残酷な言葉は国民の一部の間で一定の支持を得ている。政府がここまで強気でいられるのは、そのためである。

 

であるならば、私にできることで一番大きなことは、ネット上で右翼の言説によって洗脳されたひとたちを脱洗脳することである。

 

さて、慰安婦問題を取り扱うプログは多数ある。だが、その多くは慰安婦問題を研究するブロガー同士の情報のキャッチボールの場になっているのではないか。慰安婦問題を地道に研究する場はもちろん必要である。しかし、もっと大切なのは一般のネットユーザーに歴史の事実と人権・人道の意識を広めることだ。そういうブログはあるのか。一般ネットユーザーのレベルを考えて書いているのか。数ある右翼ブログとどちらが、ひとびとに言い聞かせる力が強いか、考えたことはあるのか。

 

右翼ブログは単純・明解でひとびとの感情に訴える。事実を単純化し、資料を読まなくても理解できる。日本が侮辱されているという、低級な感情に訴える。ずるいやり方ではあるが、とても訴求力が強い。これに対抗するためにはこちら側もわかりやすく真実を伝えなくてはならない。面倒くさい資料を羅列する必要はない。相手がはっと気づく、ものごとを元から考えるよう仕向けるそういう言葉で書く必要がある。これは右翼のブログにはない。彼らのブログはものを考えないですむようにしている。

 

慰安婦問題ブログを見ると囲みテーブルの中に資料がいくつも提示されていて分量が多いが、自分の意見は20-10%というのがある。これはまずい。慰安婦問題をこれからやろう、と思っている自分でさえ、こんなブログはまず、読みとおす気にならない。だから仲間内のキャッチボールであって内向きだというのだ。右翼によって洗脳されたユーザーはこういうのを読んで勉強すると思うか。

 

もちろん自説の正しさを証明するために資料は大切だ。だが、その前に自説の正しさをやさしい言葉でずばりと説明すること、それが先決だ。自分の言葉に耳を傾けさせることが出来てはじめて読者は資料を読む気になるのだ。 

 

相手にもっとはじめから自分の頭で考えさせるためにはどうしたらいいか。そのためにはブロガー自身が自分の頭で考えていなくてはならない。資料や本を読むのはかったるいぞ。一番いいのは反対の意見を持つものと討論することだ。そうすると自分が思いもよらなかった言い分、意見に遭遇する。そのときは本や資料はあてにならない。それは適切な資料や本の言及部分に瞬時にアクセスできないからだ。

 

そのときは今の自分の知識だけ使って自分の頭で考えて自分の言葉で書くしかない。そして相手の知識水準と慰安婦問題に対する態度を見極めて言葉や反論材料を選ぶ。相手にあわせてさまざまな言い方を工夫し、そのときに必要な資料を選択して書く。いままでわかっていると思うことでもこうして、なんども相手を見て書き換えをすることであやふやな知識、付け焼刃の論理がしっかりしたものになる。対話・議論するたびに自分の成長を確認できる。だから、議論は私にとって欠かせない学習手段なのだ。 

 

 

 

資料の読み方だってそうだ。本を一冊、二冊、三冊と片端から読破して、積み上げていって賢くなれるか。なれない。「学びて時にこれを習ふ、亦説ばしからずや」。本を読んだあとはそれを自分の頭の中で熟成する時間が必要だ。そして、ふと沸き起こる疑問点、それをいつもいつも考えていること、かたときも考え続けているときに、自分の中で新しい解決がえられる。それはただちに新しい表現、言い方ができるようになる。それは知識を真に自分のものに出来たということなのだ。 

 

私は畳の上の水練というのは嫌いなのだ。まず相手と議論して、自分の持っているありったけの知識と論理立てで勝負する。その結果、痛いところを突かれたら、そこでまた、本を読む、資料を探す。そういう知識だけが、自分の身についた知識になる。私は慰安婦のことはまだ知らないことがたくさんある。何を知らないかをまだよく知らない。議論して相手に適切な反論を与えられない、言葉につまる、そういうときがある。そのときこそ勉強して自分の成長の糧とすることができる。実は歴史修正主義に勝つということはなにも相手を論破する、相手を説得するということだけが目的ではないのだ。相手との対話をして自分自身の認識を高める、自分がどのような歴史修正主義者に対しても太刀打ちできない人間になる、ということ自体が歴史修正主義に勝つということなのだ。

 

私は掲示板出身者である。2002年当時は左翼も右翼も同じ掲示板でやりあっていた。今は左右両派にわかれて同一ブロック内でのやり取りばかりがある。トラックバックとリンクなどで交流・行き来は盛んだが、言いっぱなし、言いたい放題で終わっている。たまに来るブログのコメント欄での討論はすぐに物別れ、討論不成立で終わってしまう。私はそれが残念だ。これは大きい目線でいうと民主主義にとって具合が悪い。

 

 

 

まず、議論に来たひとにものを知らないと馬鹿にしたり、人権意識がないとか、そういうものの言い方をしない。これは左翼・右翼を問わず、相手の人格をけなしたり、こちら側から見た「論理の破綻」を非難しつくしているが、われわれの側は決してやってはならない。

 

 

当てこすり、皮肉、切り返しのような言い方を慎む。この言い方をしても相手には通用しない。相手はまず、同じような切り返しをしてくる。なぜそうなるかというとお互いが議論のための共通認識が崩れたときにこうなる。お互いに議論のプラットフォームが得られず、自分の土俵で勝負しようとしているからだ。このようなときは改めて相手に語らせることが必要だ。相手に語らせたところで共通認識のある場所まで降りて新たに土俵を設定することが必要だ。

 

仲間内で使うような新語を使うな。たとえば、「マイ定義」とか「メタなんとか」とか、ちょっと前から「disる」という言葉も知った。なぜ使ってはいけないか、というとまず私が知らない言葉だということがひとつ。私は結構ネットを見ているほうだと思うが、それなのにわからない。ということはネットを私より見ていない人には伝わらない。

 

意味が伝わらないひとにも、その言葉の感覚は伝わる。こういう言葉を使うひとは「おれはネットの世界でバリバリやっているぞ」という優越感を込めている。それは必ず反発感を持たれる。そしてこの種の言葉はネット右翼とそれに追随するひとたちを冷笑・皮肉する感覚を持っているからだ。

 

議論のエンディングで相手に勝った、とか、相手が逃亡した、などと言って終わるな。ネットでの議論というのは言論空間におけるプロレスゲームみたいなもので完全にバーチャルである。議論内容で負けているはずのものでも、理解力がないものは投げられた痛みを感じないでいられる。こういうものを相手にして相手に勝ったとか相手が逃げたとか言ってもむなしい。勝負の判定はROMのひとの任せれば十分だ。議論内容で相手が負けたと認めている、そういう風情が見られるときだけが本当の勝ちである。相手がものごとを少しでも元から考え直すように仕向けたらますまずである。

 

 

まだまだ書き足りないこと、書き漏らしもあるかも知れず、しかし、とりあえず今思い及ぶことを書いたということで、今まで慰安婦関係のブログ、サイトを運営してきた方々にはこれから、もっともっと御世話になります。よろしく、お願いします。