天に代わりて不義を討つ

歴史修正主義に反対します。難しいことをやさしく、わかっていると思うことを深く追求して書きます。議論を通じ、対話を通じて真実を求めます。

「GHQが慰安所の設置を要請した」という早とちりの理由(2)

米軍が日本に「慰安所」を作るよう命じたという説をウヨクが盛んに振りまいており、そのひとつが内務省警保局「連合軍進駐経緯ニ関スル件」にある、というものです。wikipediaには「特殊慰安施設協会」の項目で記事があり、その一部を根拠としているらしい。

wikipediaより

他方、占領軍がこの種の「サービス」を提供するよう命じたという説があり、1945年8月22日付で発令された内務省警保局「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書の最後の項目に「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」と記されている[10]。また、同日には、連合軍の新聞記者からも「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が伝えられていた[11]。しかし、実際には終戦3日後の8月18日に警視庁は花柳界の団体と打ち合わせを終え、内務省は同日に各地方へ「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を行政通達している[6]。

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 「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」という部分がそれだが、内務省警保局は連合軍との折衝に当たる部署ではないから、折衝に当たる部署からの指示があり、それを受けての通達であろう。wikiはこのような無責任な「説」などを書くべきではなく、「説」がほんとうかどうか確かめるべきであろう。8月22日と言えばまだ、アメリカ軍は上陸していない。したがって交渉は海外でなされたはずである。さがすまでもなく、ネトウヨがあげるのが川嶋高峰氏の論文である。http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/ronbun/hisenryou.htm

 被 占 領 心 理 肉体の戦士R.A.Aと官僚的「合理性」

                             川嶋高峰氏

 

> RAAの誕生

>  政府は占領軍「進駐」に際し「婦女子」に起こるであろう強姦等の暴力行為を未然に防ぐ手段として、占領軍専用の国家売春施設の準備にいち早く取り組んでいた。しかし、これは何も政府だけが率先した結果ではなかった。例えば、敗戦直後の東京では「異口同音最モ懸念シ居レルハ、婦女子ニ対スル暴行陵辱云々ノ恐怖ニシテ、次ニ食料問題、産業戦士ノ帰趨問題等ナルガ、就中婦女子ニ関スル問題ハ深刻ヲ極メ、速ニ疎開ノ方針若ハ敵上陸兵ニ対スル完全且大規模ナル慰安娯楽施設(特ニ接待婦)ノ確立ヲ要望スル者多キ状況」と報告されていた(33)。また、「進駐」予定地のある三重県からも「私達がこんな事を云ふのは変ですけれども娼妓さんや芸妓なんかをうんと増して欲しい」、「アメリカ軍が民家へ来ない様な彼らを満足せしむる享楽街を早く作ってほしい」といった女性の会話が報告され「婦女子に此の要望多し」と報告されていた(34)。このように「性の防波堤」は官民共有の発想であり、このことは他民族に残虐なものは自民族にすら残虐であることを物語っている。

>  既に当局は、敗戦三日後の八月一八日には「外国駐屯慰安施設等整備要項」とする指令を内務省から各都道府県に出していた(35)。当時これを担当した大蔵省主税局長池田勇人は予算捻出に際し「これだけの金で日本婦女子の貞操が守られるならは安い」(36)と融資を快諾したという。かくして、東京では警視庁の音頭とりで八月二六日、特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association、略称、RAA)が設立された。結成式は皇居前で行われ「『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と大層な声明が読み上げられたのであった(37)。かくして、最初の慰安施設「小町園」が八月二八日、東京大森に開かれた。

>  以上がこの特殊慰安施設設立の経緯についてこれまで明らかにされてきた点である。しかし、ここで極め興味深い事実を指摘しておきたい。それは、連合軍「進駐」に先立ち「進駐」等の手順を決めるために行われたマニラ会談(八月二〇日)において、「慰安施設」の要求が連合国側よりあった可能性である。マニラ会談の直後、八月二二日付けで内務省警保局は地方総監、各庁府県長官宛に「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書を発令している。これはマニラ会談の雰囲気や今後の「進駐」日程等を、伝えたものであったが、その最後の項目につぎのように記されていた。「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」(38)。これは、会談当時の模様を伝えるいわば間接情報であり、そのことの真偽、つまり、これが会談における公式な要求としてでたのか、或いは、聯合軍側の代表の私的な会話を伝えたものなのかを判断することはできない。又、仮にこれが公式な要求であったとしても「慰安」の意味の日米間での理解の相違の可能性もある。そもそも、日本政府による慰安施設の準備は、河辺虎四郎ら日本代表が出発する以前に命令されており、この資料を以て特殊慰安施設がアメリカから強制されたものであると証明することはできない。しかし、アメリカ側がこのような施設の要求をしたことを完全に否定することもできないのである。

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慰安という言葉の理解の相違、私的な会話を伝えたなどの可能性を指摘した上で、完全に否定することもできない、と結んでいる。

 

特殊慰安婦施設の設置の決定は8月18日、マニラ会談に河辺虎四郎らが出発する前である。この事実だけでアメリカが命令したということは否定される。しかし、なおその上にアメリカもまた慰安設備を要求したか、どうかまではわからないということになる。

マニラ会談でのアメリカの要求項目によってそれを確認できる。

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マニラ会談で示された連合国最高司令官要求事項http://nagaikazu.la.coocan.jp/GHQFILM/DOCUMENTS/reqirements.html

書誌事項:マニラ会談において日本側に手交された要求事項。江藤淳編著『占領史録』第1巻から引用

 

「マニラ」ニ於テ手交セラレタル連合国最高司令官要求事項

 

<日程と先遣部隊、連合軍最高司令官、鹿屋地域への占領部隊に対する要求にわかれる。長いので宿舎、運送設備、慰安所(?)に関する部分のみを抽出する。>

右日本代表者ハ左ノ事項ニ關シ得ラルヘキ情報ヲ提出スルノ用意アルヘシ

イ、東京湾及鹿屋(九州)地域ニ於ケル左ノ如キ施設

飛行場

水上機基地

海軍基地

防空施設

港湾防備施設

地雷、機雷原及陸海空ヨリスル行動ニ対スル其他ノ障害竝ニ右ニ關聯スル安全航路

空中及水上航行ニ対スル補助施設

港湾施設

送油管ニ依ル配給施設ヲ含ム貯油施設

有蓋及無蓋補給品貯蔵所

将校宿含

兵 営

兵 舎

事務所敷地

自動車輸途

 

二、総司令部區域

左ノ各號ノ便宜ハ人口稠密ナラザル一區域ニ綜合的ニ所在スベキモノトス

該區域ハ所要ノ便宜ヲ適宣集合的ニ所定目的ノ為便用セラルル如ク提供スベキナリ提供セラルルー切ノ建築物及施設ハ其ノ目的ニ達スル如ク完全ナル家具及設備ヲ有シ適当ナル照明及衛生設備ヲ備フベシ

(イ)聯合國最高司令官ノ為相当ノ造作ト家具及四名ノ副官及三名ノ使用人ノ為ノ寝室ヲ有スル適当ナル住宅

(ロ)参謀長及他ノ九名ノ将官ノ為ノ相当ノ造作及家具ヲ有シ最高司令官仕宅ノ近隣ニアル適当ナル住宅

(ハ)六百名ノ士官ノ為浴室及便所ノ施設ヲ有スル「ホテル」又ハ宿舎等ノ類ヨリ成ル住居區域

(ニ)ニ千三百名ノ兵員ヲ収客シ得ル所要ノ厨房、食堂、浴室、便所及事務所ヲ備フル兵舎其ノ他ノ建物

兵舎ノ収容カノ墓準ハ一人当五百立呎以下ナラザルモノトス

 

(ホ)司令部事務所ノ為約六七、○○○平方呎ノ事務所用敷地ヲ要ス右ハ要スレバ一區域ヲ四九、○○○平方呎他ノ地區ヲー八、○○○平方呎トスル基準ニ依り適宜ノ距離ニ離レタル二區域ニ分ツコトヲ得

 

(ヘ)軍需品格納ノ特ニ約一萬平方呎ノ有蓋倉庫敷地ヲ要求セラルベシ右敷地ハ駐屯軍兵舎ノ附近ニアルモノナルヲ要ス上記有蓋倉庫ノ附近ニ約十萬平方呎(二「工―カー」)ノ野天物資集積用又ハ自動車停車用空地ヲ要ス

 

(ト)本地域ニ於テー九四五年八月ニ十七日一五○○時迄ニ下記数量ノ自動車輛ノ提供ヲ要ス聯合軍側へノ引渡ニ先チー切ノ之等車輛ニハ完全ニ「ガソリン」、潤滑油及「グリーズ」ヲ供給シ置クヲ要ス、聯合軍側ノ使用期間中「ガソリン」及潤滑油ハ所要ニ応ジ供給セラルベキモノトス

 

総司令部地域ニテ所要ノ車輔類左ノ如シ

 

乗用車一五○台、「バス」(十五人乗以上)ニ五台、「トラヅク」(ニ屯乃至ニ屯半積「カーゴー」型)五○台

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これだけである。慰安も慰安所の文字も出てこない。当然である。アメリカ占領軍の最大の関心は自軍の安全である。戦争の間中、あれだけ果敢に戦った日本人が激しい抵抗・不服従を示すのではないかとおそれていた。要求事項には日本の陸海軍に対する指示がずらりと並ぶ。次に重要視されたのは、米兵を収容している捕虜収容所を早期に確保し、衰弱している捕虜を早期に解放することであった。三番目に自身の宿舎や食料などである。焼け跡であり、食料もないのでこれらを確保しなければ占領軍兵士が生活できない恐れがあった。そんな中で兵士の「慰安」、それも日本女性を使っての慰安など考えも及ばなかったのが実情である。ドウス昌代の『敗者の贈物』には日本が女性を使っての破壊活動をすることに対する危惧をもっていたことが明らかにされている。アメリカ軍が慰安所を要請することはありえなかった。

 アメリカ軍の要求にないものが内務省警保局長の文書には付け加わった。その背景を推測するならば、敗戦以来このかたのアメリカ軍の性暴行を防ぐことが官民一致の最大関心事となったという日本人の精神構造である。アメリカ軍の要望に宿舎、運搬設備とあれば次には「慰安所」だろうとはじめから決めてかかっていた局長氏は特別な意図があったわけでもないのく、疑いも持たず書き足していた、というのが一番ありえる。川嶋氏がいみじくも指摘するように、「このように「性の防波堤」は官民共有の発想であり、このことは他民族に残虐なものは自民族にすら残虐であることを物語っている」ということなのである。

最後になるが、wikiの記述の中の

また、同日には、連合軍の新聞記者からも「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が伝えられていた[11]。

という部分は新聞記者が「そういう施設」を期待していた、という意味ではなく、アメリカ兵が「そういう施設」に通うという場面を見たらただちに撮影したら、特ダネになる、というアメリカ国内の事情を語っている。これもドウス昌代の『敗者の贈物』を読めばすぐわかるのだが、このwikiの記述を加えたネトウヨは記事の意味がよくわかっていないまま、飛びついたようだ。

 RAAをめぐってアメリカ軍が命令して作らせたという記事は当時の日本人と現今のネトウヨの脳内風景を映し出して物悲しい。