吉元玉さんを広島に迎え、証言を聞く集会に参加しました。
聴こえますか?
ハルモニの叫びが!
日本軍「慰安婦」被害者証言集会in広島(2013.5.19)
に参加してきました。もともと、韓国の挺対協のひとたちと日本のひとたちの間でハルモニたちを及びして集会を開く予定があったそうです。それが最近の橋下市長の発言で思いがけず集会が盛り上がることになったそうです。
記念講演として梁澄子(ヤン・チンジャ)さんが「日本軍『慰安婦』問題の真実」と題して講演を行いました。もともとは安部首相の歴史認識に対する批判をレジュメに用意していたところ、橋下の暴言を批判するレジュメに変わったそうです。
橋下は「慰安婦制度」は必要だったというが、これは当時の軍の見方に自分を合わせていた。ところが急に慰安婦制度は容認していない、などと態度を変えた。
また、強制連行がなかったから、慰安婦は強制ではなかったという意見を最近では国を挙げて暴行・脅迫・拉致をしてそういう仕事につかせていたといわれているが、そういう事実はない、もしそういう事実があればそれは日本の特殊性であって世界かに言われるまでもなく、日本は反省しなければならない。などと主張をするすると変えてきている。
しかし、日本軍が中国やアジアで暴行・脅迫で現地住民を強制して慰安婦にした事実はある。それに関して10件の訴訟がなされたが、いずれも敗訴となった。その理由は外地において日本がそういうことをしてはいけないという法律を当時、日本が持っていなかったという理由だそうである。しかし、事実関係においては10件中8件で事実認定がされている。
女性を徴募するときはいろんな手口が使われたが、むき出しの暴力でなければなにをやってもいいのか。刑法では直接の暴行・脅迫によってひとさらいをすることを略取といい、だましたり、誘惑したりして判断を誤らせた上で自己の支配下に置くことを誘拐というが、両者の量刑は同じである。すなわち、同罪である。
日本軍慰安婦は8万とも10万とも言われる。その方たちは長く口を閉ざしていた。金学順さんが最初に声を挙げたあと、少しずつ名乗りを挙げるひとたちが続いた。慰安婦の中には慰安所の中で死んだひと、戦争の中で死んだひと、敗戦後も身寄りもおらず、頼るひともなく、窮乏の中早死にしたひとも多い。恥辱とPTSDのため、証言するひとは少なく、金学順さんが証言したあとも名乗りを上げるひとは少なかった。現在韓国で名乗りを上げたひとは235人いる。他にも中国、台湾、インドネシア、フィリピン、オランダ、メラネシアなどにいる。口を開くことなく、息絶えた方々の苦しみを、また、いまだ名乗りを上げることのない人たちの胸の苦しみを感じてほしい。
名乗りを上げたひとたちは証言をきっかけとして変わっていった。当初は日本政府への怒りと憎しみだけだったが、世界の戦争による性被害をなくすために証言をするようになり、それが自分自身の心の傷の救済にもつながるようになった。
証言者である吉元玉さんは84歳、平壌に近いところでそだった。13歳のとき父親が監獄に入れられ、10円の罰金を払えば釈放されると聞かされた。そのときあるひとがいい働き場所がある、そこなら10円をすぐ返されると言われ、したがったところ行った先は日本軍慰安所だった。慰安所では日本の将校に暴行を受けた。いっそのこと日本刀で切られて死ねばよいと思ったが将校は刀を鞘に収めたままで頭をぶん殴ったのでおびただしい血が流れた。
解放されたあとは仁川に行った。父母には二度と会えなかった。養子をもらって育てた。
5月18日の福山市の集会の記事(朝日新聞)
慰安婦証言者が名乗り出たときにはなんでそんな恥ずかしいことを公にするのかと思っていた。証言しはじめたのかなり遅い方だった。いまは糖尿病・高血圧・ヘルニア、膵炎などに苦しむ。証言の合間には苦しそうに息をしている。しかし、ときおり、言いたいことが思い浮かぶとマイクを取って再び話はじめる。そのときの口調ははっきりし、顔つきも元気になる。証言を始めて以来、自分だけのこととは思わなくなった。現在はナヌムの家で暮らし生活の心配はない。ただこれからのひとたちに性被害が出ないことを目指し、戦争のない世の中になるよう証言活動を続けている。オーストラリアやEUの議会でも証言をしたことがある。昨日は福山市で証言活動を行い、明日は女子大で、あさっては広島市立大と集会に参加し、24日には橋下市長に面会する。
彼女たちが生きている間に日本政府の謝罪と補償が行なわれてほしいものだ。